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世界の"おもしろそう"を日本語に

資本主義が終焉した後 - Part.2 

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2011年にBBCのジャーナリストであるメイソンは、2007〜2008年に起こった金融クラッシュを起因に広まった「広場占拠運動(movement of the squares)」から生まれた反緊縮財政を掲げる政党や団体に関する非常に重要な研究を行っている。ポスト資本主義は、広場占拠運動と反緊縮財政派の政党や団体には欠くことができない繋がりを描いている。

リーマンショックとLIBOR金利不正操作を目の当たりにしたメイソンは、ある種の「終焉をみた」と考えた。その後、彼は、2015年5月15日にスペインで「怒れる者」と呼ばれる、政府、政党、労組、金融機関、大企業、市場、EU、IMFなどの制作がもたらした社会的結果に抗議する若者5万人が集結した首都マドリードにあるPuerta del Sol(太陽の門)広場、緊縮策反対デモが起こった首都アテネ中心部にあるSyntagma Square(シンタグマ広場)、反政府でもが起こったイスタンブールにあるゲジ公園までを取材した彼は、「始まりをみた」と信じている。ポスト資本主義は、よく議論される「資本主義は行き詰まりに達しているが、資本主義にとって替わるシステムとは何だろうか」という論点を前進させている。

メイソンは、「資本主義は長期に渡り、取り返しのつかない危機に陥っている可能性がある」と資本主義の批判を始める。コンドラチェフの波に照らし合わせてみると、資本主義は大きなバブルを経験してからそのバブルが始めるまでの景気循環は、約50年周期で起きるとなんている。メイソンは、「1950年代に始まった景気循環は終わりに達しており、次第に資本主義経済は縮小していく」と主張する。前回の景気循環の終わりとは違い、今回の終わりに暗い出口を照らす経済的兆候はなにもない。この原因の1つは、労働力が休止状態となっている点である。過去の資本主義の景気循環のサイクルにおいては、労働力が機械、政治的運動、合法的・非合法的な団体とともに経済危機を打破してきた。

戦後、プロレタリアート(資本も生産財も持たず、唯一の財産である労力を雇い主に売って生活しなければならない工場労働者階級)は、現在とは対照的に福祉が充実しており、安価に、もしくは無料で高等教育を受けられる環境が整っている国家のもとで育っていた。ブルーカラーの職種に着く人びとは減少の一途を辿り、最低の階級から急成長しホワイトカラーの職種に着く人びとが増加する仕組みが整っていたのだ。19世紀から20世紀初頭の労働階級がもっていた自己防衛的で自己懐疑的な文化は、資本主義と労働者階級の人びとが持っていた革命への欲求を中和した福祉国家の民主主義的な制度に組み込まれているのだ。

それにも関わらず、メイソンは「労働階級は1970年台に国家主義的な規制や介入に対する最後の攻撃を行ない、この後遺症が資本主義のグレイブディガー(墓を掘る人)となる歴史的なエージェントを生んだ」と主張している。メイソンに刺激を与えた自治論者のように、メイソンは自身の研究の中核となる舞台をイタリアに移した。1969〜1977年まで、イタリアではストライキや工場の占拠といったデモ活動が連続して起こっていた。イタリアの共産主義政党は、ストライキや占拠に注がれたエナジーを彼らにとっての正しい方向に持っていくことに苦慮していた。その間、左派の学生たちは過度な議会政治制を勝ち取るために革命のような解決策でこの危機に対応しようとしていた。

イタリアのように他の場所でも、政治的右派の出現は、資本主義の始まりとして認識されている。彼らが数世代にわたり発展させてきた経済的なアイデアは、超保守主義者が完全雇用を維持し、労働組合と折り合いを付けることによって構成されるコンセンサスによって打破された。産業界の巨大企業と保守的な国会議員の協調は、不採算事業の閉鎖、サプライチェーンの世界規模への拡大、労働組合の破壊を招き、労働階級者層に対して劇的な争いを解き放つこととなった。

しかし、もし労働階級がこの危機で破れていたとしたら、新しい意識が現れていただろう。メイソンは、イタリアの哲学者、政治活動家であるアントニオ・ネグリの考えを支持している。その考えとは、産業界の大量の労働者で構成された労働組合運動の崩壊は、新しい政治的課題を提示している。それは、雇用、もしくは雇用されていない全ての人びとに適合する社会労働者という存在だ。ネグリの最近の研究では、これをマルチチュードと呼ばれている。この新しい資本主義において、雇用されていない社会労働者は、革命組織を労働組合はなく、メイソンが呼ぶ”ネットワーク”という概念に見出すことができる。

過去20年間にわたり、資本主義は自身のグレイブディガー(墓を掘る人)となる新しい社会的勢力を結集させてきた。それはまさに19世紀に工業労働者(工場で働くプロレタリアート)が組織された経緯と同じだ。ここでいうネットワークという新しい社会的勢力とは、ネットワーク化された街の広場にキャンプを張ったり、採掘場を封鎖したり、ロシアにある大聖堂の屋根の上でパンク・ロックをパフォーマンスしたり、反抗的にイスラム教に対してビールの缶をゲジ公園の芝生の上に積み上げたり、リオやサンパウロ、中国南部の路上で起こっている大規模なストライキに参加している個人で構成されているのだ。

この途方もなく馬鹿げた象徴は、本質的にプーチン大統領に批判的な立場をとるプッシー・ライオットというバンドとアメリカの俳優でありフラクティビスト(社会と環境的な正義のための活動家で、水圧破砕法に反対している)であるマーク・ラファロを結びつけることになった。これは、社会的な結びつきがないような層の人びとをも結びつける可能性を示唆している。例えば、深センで働く工場労働者と中産階級のジルマ・ルセフに批判的な立場をとる人が、同じ目的を持つ革命の担い手となることがあるかもしれないのだ。

メイソンが展開する議論のコンテクストは、新しい生産様式が出現するという自身の「情報資本主義」という考え方に根ざしている。情報資本主義のもとでは、エンジニアリングに組み込まれる新しいテクノロジーの導入は、生産コストを減少させる可能性を含んでいる。かつては、デザインとエンジニアリングの課程において、デザイナー、製図技師、模型を制作するモデラーといった多くの労働者を必要とした。しかし、現在では少数の労働者でこの課程を完結できるようになった。1人のデザイナーが3Dモデルをコンピューターで作り、3Dプリンターを使って印刷し、パイロット版を作成する。それが上手いこといけば、近くにあるオートメーション(機械化された)工場で大量生産するわけだ。コードのオープンソース化は、新しいテクノロジーを世界中に急速に広げることを可能とし、それにともなうコストは圧倒的に低下した。メイソンは、これに似た自由度が高く、利用者の自発的行為によって利用されているのは、Wikipediaであると説明している。

これら全てのメイソンが考えていることは、ある一定の政治状況が整えば有効となる打開策を提示している。但し、中には実現することが不可能に近い条件もあるわけだ。彼は、打開策の第一歩を「企業が独占価格を設定することを禁止させ、最低所得保障(ベーシック・インカム)を有効とさせることだ」だと提案している。その結果として起こることは「これの制作により限界費用ゼロの効果を生み出すトランスミッターとなる。これは結果として、労働者の労働時間が減少することを明示している。」と説明している。

つまり、彼は独占禁止法こそが強固な経済的な基礎となる(人民主義運動が起こっていない場合に限る)と考えている。よって、Googleのような企業は市場における支配権を失い、ネットワークで繋がった怒れる人びとは、Amazonのような社会的なニーズをトラッキングし、計算することが出来るツールを用いることで生産を奪い返し、全てを無料で生産することができるのだ(労働運動が起こっておらず、誰も金を稼ぐという欲求を持たなくなった場合に限る)。そうすれば、世界中の全ての問題は、オープンソースという暖かな風呂桶に溶けて無くなってしまう。バルブ・コーポレーションのソフトウェアの分野においては、資本主義は通じておらず、敗北しているのだ。

しかし、このような全てのものにおける大規模な自由化が今後、実際に起こるという保証はない。限界費用ゼロ社会の実現を誘導する理論を否定する人びとは、なぜこれに否定的な立場をとるのかを1つの例を持って説明すればいい。メイソンは、Google、Facebook、そしてAppleが検索、ソーシャル・ネットワーキング、音楽の分野で独占に近い位置にいるという実例をもって説明している。オープンソースを活用して起業された会社としては、GitHubが有名であるが、そのGitHubさえも収益を生む経営方法を見つけている。しかし、メイソンによれば、”ネットワーク”は、このヒエラルキーにさえも疑いをもってみている。Appleに自身の楽曲を販売させているミュージシャンたちは、もしかすると自身の楽曲を無料で提供し、他の手段で奨励金を受取るほうがより大きな利益を得られる可能性があるわけだ。

現行のビジネスモデルに対抗して成功をおさめるためには、資本の所有権は、新しい分野にも拡張される必要がある。資本は、私たちのセルフィー、プレイリスト、そして私たちが発行した学術論文だけでなく、それを発行するために行った研究課程をも所有しなければならない。実際には、現時点では部分的な所有権こそがメイソンが思い描く以上に私たちが選択する未来のように映る。しかし、メイソンはテクノロジー自体が部分的な所有権に対して抵抗する意味を私たちに与えており、資本の所有権の拡張は長期的にみれば可能であると考えている。

 

Part.3に続く

  

元記事:After Capitalism