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世界の"おもしろそう"を日本語に

人類史上、もっとも裕福な人物って誰?

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Source: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ea/Catalan_Atlas_BNF_Sheet_6_Mansa_Musa.jpg

誰しもが知っている富豪っていますよね。例えば、9世紀に勃興した富豪といえば、泥棒男爵という軽蔑的な意味合いの言葉をもって形容される、カーネギー、ロックフェラー、モーガンといった実業家や銀行家が有名です。現代では、ビル・ゲイツ、ウォーレン・バフェット、チャールズ・コック、デイビッド・コックが超富裕層にあたる著名人です。

それでは、皆さんは人類史上、最も裕福だった人物をご存知でしょうか?きっと、彼の名前は聞いたこともないでしょうし、彼は黒人でした。

ローマ帝国がイタリアの丘にあった小さな街から始まり、ヨーロッパの大部分を征服したように、この人類史の中で最も裕福だった人物が納めていた帝国もアフリカの西海岸から始まりました。遊牧民たちは北アフリカにある広大なサハラ砂漠を何世紀にもわたって彷徨っていました。彼らは、オアシスの近くに小さなコミュニティーを築き、暮らしていたそうです。当時のサハラ砂漠には多くの資源はなかったものの、古代の湖があった地層から干上がった塩が大量に採れました。

当時、塩は金よりも貴重でした。塩はアフリカの暑い気候に暮らす人々にとっては欠かせない栄養補給ができる食べ物であり、冷蔵庫が発明される前の時代に塩は食料を保存するためにも使われていました。この結果、塩は交易の盛況を牽引する品物となりました。砂漠の遊牧民たちは地層から塩の固まりをブロック状に切り取り、それをサハラ砂漠の向こう側にある海岸沿いに住む部族に徒歩で輸送していました。遊牧民たちは塩を売り、部族はその対価として金を与えました。海岸沿いにあった部族の1つであるソニンケ族は、保有する金を使い砂漠から運び込まれる塩の流通を支配し、周囲にいた部族を取り込みガーナという王国を築きました。

2世紀、東方からきたアラビアの商人は、ラクダを持ち込み、遊牧民は広大なサハラ砂漠をラクダを使って移動するようになります。塩の交易範囲はガーナ王国からアラビア、そして中国にまでと広大で、ラクダのキャラバンを通じた貿易でガーナ王国はさらに富を拡大させました。 

貿易拠点の街の1つはサハラ砂漠の南端にあり、これは現在のマリ共和国です。当時は、ティンブクトゥという街で、アフリカとアラビアの貿易が進むにつれて街の規模も拡大していきました。1235年、スンジャータ・ケイタというマンディカ族の長がカンガバという小さな王国の支配者となりました。彼は、ニジェール川があるガーナ王国の東側に向けて遠征を始めます。数年間の遠征の末にカンガバ王国はマリ王国に統一されました。この際にスンジャータは”The Lion King” (ライオン・キング)という名前を冠するようになります。

このときには、ガーナ王国はサハラからきたトゥアレグ族とベルベル族という侵略者に陥落していたため、マリ王国は金鉱地に侵攻し、支配権を確保することに成功しました。同時に交易拠点であったクンビ・サーレ(ガーナ王国の都)、ガオ、トンブクトゥといった街も支配下に収めました。スンジャータは”Mansi” (王の中の王という意味)という名前を冠し、ニアニという都市に自身の宮殿を建設しました。この頃には、彼の王国は千マイルほどの規模になっていました。

マリ王国はイスラム教を伝道する商人で溢れ返っていました。スンジャータの後継者たちはイスラム教へと改宗し、統治するすべての街に図書館とモスクを建設し始めました。トンブクトゥは、20万人の民が住む国際的な都市となり、貿易の拠点としても利用されていました。これは同時期のロンドン、ローマ、パリといった都市よりも大きな規模で、3つの大学と100を超える学校と図書館をもつ学術的な街でもあり、トンブクトゥは、その栄華から”アフリカの真珠”と呼ばれていました。 

1312年、マリ王国の王座はスンジャータのおいの息子であるマンサ・ムーサ1世へと継承されました。このときまでに、マリ王国はアフリカにおける金と塩の産出の半分を支配しており、王国の富は全盛を迎えました。彼らが産出した金と塩のほとんどは、アラビアの仲介人を通じてヨーロッパで取引されましたが、聖地パレスチナに住んでいたアラビア人はマリ王国に関する正しい知識をもっていませんでした。

しかし、これはムーサがハッジ(イスラム教徒が聖地メッカで行う巡礼)を行った1324年に変わります。ムーサはハッジに出かけている間、彼に代わって王国を統治する代理人を指定した後、大量のラクダ、ワゴン、6万人で構成されるキャラバン隊、1万2千人の奴隷、そして10トンの金と共にメッカへと旅立ちました。ムーサはメッカまでの道中で立ち寄ったカイロやメディーナなどの街に新しいモスクを建設したと言われています。

ムーサがメッカへの旅路で立ち寄った街に大量の金を与えたことで、地元経済に物価の上昇などの悪影響を及ぼしました。カイロでは膨大な金をばら撒いたため、金相場が暴落し、後10年にわたりインフレが続いたと言われています。ムーサは歴史上、単独で金の相場に影響を与えた唯一の人物となりました。彼はアラビア人の学者と大量の書物と共にマリ王国に戻りました。

ムーサはアラビアから建築家も連れてきており、多くのモスクを建築させました。その中には泥れんが造りで有名なジンガリベリ・モスクも含まれています。ムーサの権力と財力、自身が納めていたマリ王国の400を超す街、建設したモスクと図書館などを鑑みると、マンサ・ムーサの個人資産は、現在の貨幣価値に換算すると4,000億ドルを越えるとされており、日本円に換算すると42兆円となります。よって、彼は人類史上、最も裕福な人物だといえます。ムーサが保有していた資産に最も近づいたのは、石油王として有名なジョン・D・ロックフェラーで、個人資産は現在の3,500億ドルだったと言われています。

アラビアのライターたちはムーサの莫大な財産、畏敬の念さえ抱かされる権力、そしてマリ王国の富と大きさに驚嘆しました。ムーサに関する書物や資料に刺激されたヨーロッパ人たちは、伝説の都市・トンブクトゥを発掘するために調査隊を現地に送り込みました。その当時、ヨーロッパの商人の間では「トンブクトゥにあった建物は黄金プレートと銀色の砂で装飾されており、川には希少な宝石が眠っていた」という噂が流行っていました。実際にヨーロッパの調査隊がトンブクトゥを発見したときに彼らがみたものは、砂漠に囲われた泥れんが造りの建物が立ち並ぶ街の跡でした。

1337年、マンサ・ムーサは他界し、マリ王国の王位はムーサの息子であるマンサ・マガーン1世に継承されました。その後、マリ王国の力は次第に衰え始め、1600年代までは存続していたものの、従属していた近隣の王国が次々と離反しました。1430年、トンブクトゥの支配権はソンガイ帝国へと移され、その後、マリ王国は滅亡したとみられています。 

トンブクトゥに造られた泥れんが造りのモスクと大学はユネスコの世界遺産に登録されています。

 

元記事:Mansa Musa I: The Richest Person in History

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