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世界の"おもしろそう"を日本語に訳します



SEKAIWOYAKUSU

世界の"おもしろそう"を日本語に

行動経済学からみた人々が拳銃を買う理由

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アメリカの生物学者であるギャレット・ハーディン氏が、1968年に学術雑誌であるサイエンスで発表した”The Tragedy of the Commons (共有地の悲劇)”という論文の中には、次のような一文が書き記されている。

「自由に使用することが許されている共有地において、人々は自己の利益の最大化を追い求める。結果、その先にあるものは破滅だ。共有地において許されている自由は全ての人々を破滅させる。」

それでは、この記事の本題に入っていくとしよう。

なぜ銃はアメリカでこんなにも普及してるのだろうか?

アメリカで銃の所有を禁止する法律を成立させることは、なぜこんなにも難しいのだろうか?

こういった質問に対する回答はたくさんあるだろう。良い回答は、これまでにさんざん議論されてきた。アメリカが銃を規制できない理由は、政界に蔓延る権益を守ろうとする議員たち、連邦議会の偏向、銃を持つ権利を守るために活動しているロビー団体などが挙げられる。

銃を規制することが、なぜこんなにも難しいことなのかを正確な洞察力を持って理解するための議論を形成する方法はないだろうか?私はあると思っている。とりわけ、銃規制に関する議論の一面である、「銃を購入することは、銃を持っている他者から自己を守ることができる」という通説に関しては、改めて深い議論を行う必要があるだろう。なぜなら、この通説は、行動経済学が抱えるジレンマの枠組みに当てはまるからだ。ここでいうジレンマとは、まさに”共有地の悲劇”のことだ。そして、私たちが”共有地の悲劇”という言葉がもつ意味を理解すれば、何が行動経済学的なジレンマを引き起こすのかがよく分かる。そうすれば、銃規制という問題に関してより深い理解を持ち、進展させることができるだろう。

まずは、共有地の悲劇とは何なのか、そしてどのように作用するのかを理解しよう。手始めに、誰も銃を持っていない世界を想像して欲しい。この想像の世界では、人々は適度に安全だ。しかし、もう少し安全に生活したいと誰かが考え、その誰かがこっそりと銃を購入したとする。それを見たご近所さんが「あの人は銃を持っていてより安全なんだから、私も銃を持ちたい」と考えて、銃を購入する。これが連鎖反応となって広まり、多くの人びとが銃を所持する銃社会ができあがる。これが"共有地の悲劇"だ。

共有地の悲劇とは、すなわち「少数が自己の利益最大化を追求するあまり、小さな不正行為を起こす。それを周りにいる他者が真似、次第と小さな不正行為が拡大し社会に蔓延する。これが積み重なり、結果的には深刻な不利益となって多数にかえってくる。」という社会現象なのだ。

アメリカの銃社会は、「アメリカ全土に住む3億2000万人による個人レベルの軍備拡張競争」と形容することができるだろう。「銃を購入する」という決断と行動は、個人にとってみれば自己の安全を確保できるという点から有益なことなのかもしれないが、社会という大きな枠組でみれば、これは非常に有害なことだ。つまり、個人の利益になることは、往々にして後に社会全体の大きなツケとなって帰ってくるのだ。特にアメリカのように、多くの人びとが「銃を所有できる社会はおかしい」と考えているのにも関わらず、現状が変わらない。そんな社会が負うツケはさらに大きいだろう。

こういった社会的な文脈の中で、銃社会という問題を個人レベルで克服するのは、非常に難しい。どれくらい難しいかというと、この問題を克服するための方法論を経済学や心理学的な観点から執筆した分厚い本が出版されているぐらい難しいのだ。また、共有地の悲劇は他の社会問題も炙りだしている。例えば、ペットボトルや空き缶のリサイクルだ。正直な話、リサイクルは面倒だし、手間もかかる。私たちが一斉にリサイクルをやめれば、私たちはリサイクルに割かれる時間を他のことに使うことができる。しかし、リサイクルをやめてしまえば、資源の枯渇や環境汚染といったより大きな地球規模の問題となってかえってくる。

銃規制に関する議論を共有地の悲劇のような観点から考えれば、銃規制という問題は、私たちが社会として直面している問題の氷山の一角に過ぎず、私たちはより大きな問題にも直面しているという現実に気がつく。私たちは、”共有地の悲劇”が提示している理論、そしてこれを理解することで得られる利点を他の分野の問題の解決にも適用することができる。

共有地の悲劇は銃規制という問題の解決につながる糸口をもう一つ提示している。それは、”協力行動”と呼ばれる社会模範の効果を検証した研究だ。この検証を行った研究者たちは、集団が取る模範には2つの種類あることを見つけ、それぞれが異なった役割を果たしていることを発見した。2つ模範とは下記のとおりだ。

記述的模範 (descriptive norm) - これは特定の状況において、多くの人々がとる行動として認識される模範であり、必ずしもそれが道徳的、もしくは法律的に正しいことであるとは限らない。

命令的模範 (injunctive norm) - これは特定の状況において、多くの人びとがとるべき望ましい行動として評価される模範であり、往々としてそれは道徳的、もしくは法律的に正しいと考えられる。

 

参考:片岡千恵(2015)「我が国の青少年の危険行動防止における規範意識の 重要性 : 学校における保健教育の視点から」pp.15,.

研究者たちは、アリゾナにあるペトラファイド・フォレスト国立公園を訪れた人々の行動を観察し、とある実験を行った。この国立公園は、太古の昔からある木々が長い時間をかけて石化し、化石のようになって横たわっていることで有名だ。研究を行う前、この国立公園はある問題に直面していた。それは、公園を訪れる人々が石化した木々をお土産として持ち帰ってしまっていたのだ。公園側は「私たちの歴史的遺産が泥棒によって破壊されています。石化した木々は小さなものですが、年間に換算すると14トンもの木々の化石が盗まれています。」と警告する看板を設置したが、問題は解決しなかった。

研究者たちは、「化石化した木々が盗まれることが流行していることを知らしめている看板は、逆に公園の訪問者たちに盗みを促してしまっているのではないか」と考えた。なぜかと言えば、前述の”共有地の悲劇”にある通り、「みんなも盗んでいるのだから、私も盗んでしまおう」という考え方が看板をみることによって、作用しているかもしれないからだ。この可能性を検証するには、2つの新しい看板を設置し、訪問者たちがどのように反応するかを検証してみればいい。

1つ目の看板には、「過去に多くの訪問客が化石化した木々を公園から持ち帰ってしまいました。これが原因で公園の自然状況は変わってしまっています。」という文章を記す。これは、記述的模範に起因する行動を引き起こすような文言だ。

2つ目の看板には、「公園の自然状況を保護するために化石化した木々を公園から持ち帰らないで下さい。」という文章を記す。これは、命令的模範に起因する行動を引き起こすような文言だ。

両方の看板を設置してみた結果、1つ目の看板より2つ目の看板を設置していた時期の方が盗みが減ったのだ。

問題の種類や性質は違えど、この実験結果が示しているメッセージは、銃規制にも活用できるかもしれない。それは、記述的模範行動である銃の普及は、銃を規制するよりも銃の所有を促す方向に作用しているのかもしれないのだ。詳しく言えば、「アメリカでは3人に1人が銃で撃たれたこと経験がある人を知っている」という銃規制を促す目的で良く使われる宣伝文は、全くの逆効果で、銃の所有を促進してているかもしれない。なぜなら、このメッセージは「多くの人びとが銃を購入している」という認識を人々に与え、「だったら、私も購入したほうがいい」という考え方に至らせる可能性があるからだ。

もう1つの注目すべき見識は、銃規制を促すのであれば、個人レベルの行動を変えるのではなく、国家・政府レベルの行動を変えるべきということだ。大方、政府は共有地を規制・調整するために作られたようなものだ。なぜなら、特定の個人にのみ利益をもたらす行為(例えば脱税)は、往々として社会の大きな代償となる。政府は、こういった不正を取り締まる必要があるのだ。私たちの祖先は、共有地の使用者に介入し、定められた法律に従い、お互いが協力して共有地を使用するように促す存在として政府を作りだしたのだ。そして、銃に関する問題は、間違いなく政府が解決すべきものだ。銃社会をもっとも効率的に変えるには、個人レベルと政府レベルで同時に変革が起きることが好ましいことは、間違いないことである。

 

元記事:Why Do People Buy Guns? A Behavioral Economics Perspective

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